自己紹介

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伊藤大輔

東京都議会議員の伊藤大輔です!

Daisuke Ito

東京都議会議員の伊藤大輔です!
立川市議会議員を第5期(17年)努め、2023年10月16日より東京都議会議員を努めております。
よろしくお願いいたします。

  • 生年月…昭和50年(1975年)5月
  • 家族…妻、長男、長女、次女
  • 特技・趣味…柔道【三段】、バスケットボール、トランペット、メダカ飼育
  • 座右の銘…自他共栄(柔道創始者 嘉納治五郎先生の教え)

学歴・クラブ

  • 立川市立上砂川小学校卒:バスケットボール部(KBC)
  • 立川市立第五中学校卒:ブラスバンド部(トランペット)
  • 東京都立東大和高校卒:柔道部(主将)

職歴

  • 19歳、資金20万円を持って南半球のニュージーランドへ単身渡航。
  • 半年後、南島クライストチャーチにてツアーガイドデビュー。
  • 同国クイーンズタウン、オークランドを転勤しながら同旅行会社にて約8年勤務。
  • その後貿易会社へ転職。
  • 帰国後は添乗員、英会話スクール勤務。現在に至る。
伊藤大輔 ニュージーランドにて

その他

  • 立川市柔道連盟理事
  • 日本空手道道場会涛空会顧問
  • 立川・サンバーナディノ姉妹市委員会理事
  • 立川市防衛協会砂川支部
  • 立川いったい音楽まつり実行委員会
  • 立川吹奏楽交流会
  • 上砂川小学校評議員(’04,’05)
  • (公社)立川青年会議所 第51代理事長
  • 立川五中PTA 本部役員(2020-22)
  • 著書 旅の指さし会話帳「ニュージーランド」編
伊藤大輔 青年会議所のころの写真

生い立ち・きっかけ

May 1975 Daisuke History
生まれたとき
絵に描いたようなボロボロのアパート(祖父母談)に会社員夫婦の長男として誕生。「床が抜けるから」という理由で洗濯機は置けず、風呂は無く母親が毎日銭湯に連れて行ってくれたそうで、「キレイなお湯に浸からせたい」と毎夕オープン時間に並んでくれていたそうです。
1975 Daisuke History
初孫
伊藤大輔の幼少期の写真1
伊藤家の初孫として生まれた私は、特に祖父母からの愛情を一身に受けていました。秋田の祖父には「でぃ君のババだば、味噌汁さ入れてもけるものな!(大君(私)のウンチなら味噌汁に入れても食べられるな!)」と言っていたほど溺愛されていたそうです(笑)
1976-1978 Daisuke History
幼少期
伊藤大輔の幼少期の写真3
父は旅行の添乗員。母はピアノを教えていました。当時は今のように週休2日ではありませんでしたが、それでも唯一の休みに海や山、スキーなどに連れて行ってもらいました。草津温泉の宿で見た巨大な氷柱は今でも鮮明に覚えています。
1978-1980 Daisuke History
柔道との出会い
伊藤大輔 子供のころの柔道の試合の写真
4歳、妹が生まれた年に柔道を始めました。当時は人前に出ることができない子どもで、それを心配した親が「一対一の柔道なら度胸がつくのでは」という思いもあったようです。妹をおんぶした母親の自転車の後ろに付いて通った道中で見た景色をよく覚えています。先生方のご指導のおかげで黒帯をいただけた事が大きな想い出。嘉納治五郎先生の「自他共栄」は、私にとって生涯の大切な言葉になりました。
1981-1987 Daisuke History
小学校時代
伊藤大輔 小学生時代の写真

ゲーム類は欲しがらなかったそうで、もっぱら虫捕りに燃えていました。体は大きいけれど足が遅く、運動会は大嫌いで、応援団や騎馬戦に重点を置きました。国語、図工、音楽は得意でしたが算数は苦手でした。飼育委員会でウサギやヒヨコが生まれ育てたのは楽しい想い出です。この頃、祖父母との三世代同居が始まりました。戦時中、薬が無く赤ちゃんの時に亡くしてしまった長男のこと。戦争で失った兄弟との思い出。レコードをかけて教えてくれたたくさんの童謡。今でも深く心に残る貴重な経験となりました。

1988-1990 Daisuke History
中学校時代
伊藤大輔 中学生時代の写真

3年間は柔道とトランペットに打ち込んでいました。実は水泳部に入ろうと思っていたのですが「一度見に来てよ」と言われて覗いた体験会で、なぜか入部の歓迎をされ、翌週にはブラスバンド部員になっていた、というよくある流れです。因みに水泳部は一度も見に行けませんでした。

1991-1993 Daisuke History
高校時代
高校は自宅から自転車で20分ほどの都立高校へ。柔道と弁当をメインで過ごした3年間。柔道部では主将を務めました。二年生も後半に近づくと、毎日一緒にいた仲間もそれぞれの進路に進み始める中、初めて自分の将来を真剣に考えました。どうしても大学で学びたいことが見つからず、最終的に海外へ行くことに。
1994-2002 Daisuke History
ニュージーランドへ
伊藤大輔 ニュージーランドにて

高校を卒業した6月。資金20万円を手に宿も決めずニュージーランドへ単身渡航。現地で出会ったたくさんの方々に支えられ約8年滞在。よく「留学していたの!?」と羨望の眼差しで見られますが、安宿を渡り歩く貧乏生活でした。その後、ツアーガイドとして旅行業に携わりました。一番有り難かったことはツアーに含まれるご飯を食べさせてもらえたことです。

私にとって初めての社会デビューとなったニュージーランド。生まれて初めて受けた人種的差別、言葉だけでなく価値観や文化の違いを経験したことが、今の自分の考え方や価値観に大きく影響しています。

2005 Daisuke History
青年会議所入会
伊藤大輔 青年会議所のころの写真
当時、ニュージーランドに永住するつもりで、妻と毎週末に不動産を見て回っていましたが、あるきっかけで帰国し、英会話スクールで働き始めます。しばらくして「同世代の違う職種の人たちと話してみたい」と思い、2005年、30歳で青年会議所(JC)へ入会。目からうろこ…の日々で、忙しかったけれど、二度と経験できない貴重な時間を過ごすことができました。何より、多くの仲間を得られたことが財産です。
2006 Daisuke History
市議選に挑戦
伊藤大輔 選挙の様子の写真

「何で市議会議員になろうとしたの?」と聞かれることがあります。親や親戚に政治家がいるわけでもなく、今まで政治関係の仕事をしていたわけでもない私が何故選挙に出ようと思ったのか、不思議に思われるのが当然だと思います。

もともと選挙に出ようなどとは考えたこともありませんでした。

ニュージーランドからの帰国後、地元の小学校で英語授業のボランティアをしていたこともあり、行政が作る教育施策に触れる機会がありました。ボランティアや評議員の活動をしていく中で、行政から学校現場に下りてくる指導内容にギャップを感じ、教育委員会へ疑問を投げかけてきましたが、どこの小僧か分からない者の訴えを聞いてもらうことはできず『一民間人』としての限界を感じたのです。

決して行政批判をしているのではなく、私自身も教育に関わってはいましたが、当時は行政の仕組みを知らないで一方的な見方しかできていなかったこともあります。しかし「子ども達の環境をよくしたい」という強い思いは益々大きくなっていく中で、「外からがダメなら中から変えることはできないか」と思い始めた。そんな折に長島昭久衆議院議員に面接を申込み、きっかけを頂きました。

これが「何で市議会議員になろうと思ったの?」の一番最初のきっかけです。

議会活動

等を歴任
伊藤大輔 議員での様子の写真

立川青年会議所(立川JC)履歴

2005年入会
2006年青少年委員会 幹事
2007年教育政策 立川委員会 副委員長
2008年

第2国際アカデミー委員会 副委員長

200名を超える地域の方々と共に世界70カ国からの同志を迎え「第21回 国際アカデミーin立川」を開催
2009年総務委員会 委員長
2010年渉外委員会 委員長
2011年

副専務

東日本大震災 被災地 立川JCメンバー40名と共に石巻市へ入る
2012年

TJC政策策定特別委員会 委員長

現在も続く立川JC政策を策定、公益法人格取得
2013年

専務理事

公益社団 初年度を運営
2014年

副理事長

わんぱく相撲 国立場所の足掛かりをつくる
2015年

第51代理事長 スローガン「自他共栄」

現役を卒業
2016年

直前理事長

東京ブロック大会 立川大会を「株式会社立飛ホールディングス」様所有地「ヤギさん広場」で開催